megMar’s diary

見たり、聞いたり、考えたり、やってみたり

1月は行く、2月は逃げる、3月は去る。

昔の人のいうことうまいこと言うなあと、歳を重ねるたび思います。

今でも残ってる言葉って、知恵というか、経験の集積なんですね、きっと。

 

今週は、職場で人目にさらされることになんだか特に疲れた1週間でした。

 

 

 

私の話を興味深そうに聞く目

私のことが鼻について仕方がないという目

困って私を頼る目

私などなんでも無いと業に示すように通り過ぎる目

傷ついて誰かに助けてほしいけど人を信じるのが怖くてどうして良いかわからない、という目

 

そういう目に囲まれて過ごしていると、

こどもの頃の気持ちがよみがえってくる。

仙人になりたい。月に帰る。星に帰りたい。

誰にも遭わずに、自分と「世界」とだけ向き合っていたい。

 

たぶん人は好きだ。

目の前の人が困っていたら最大限力になりたいと思う。

でもそれはやさしさではない。

社会性生物としてその方が都合がいいから、本能的にそうなだけだ。

沢山のひとに心を使うのは疲れる。

だからなるべく使わないようにする。

最低限の気遣いと人としての道理だけは持ったまま、

うまく少しずつ心を使うように注意を払う。

目の前のひとの感情の波に左右されないように心にフタをする。

そうして、自分はなんて冷たいんだと、後からまとめてしみじみ感じ入る。

 

1日ぼんやりしてそんなことを考えても、

1日ゆっくりお茶をしにいっても、

何も解決しない、誰もいなくならない、私の仕事もなくならない。

人をこの世につなぎとめているのは、関係性だと思う。

それがなくなればきっといなくなっても許される。

でも、なくなることはなかなかない。

これは、幸福なことなんだろうとわかっている。

 

誰もがこんな風に考えて生きづらいのかもしれない。

誰もそんな風に考えていないかもしれない。

本当はどちらでも良いことだ。

きっと外に出る必要のない、思考の戯れだ。

それをわざわざこんな風に外に出さずにいられないのは、一体何が原因なんだろう・・・